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日本にいながら英語を「話せる」ようになる3つの方法。~その2~


 前回の続き。日本にいながら英語を読み書きだけでなく「話せる」ようになる3つの方法の3つ目です。
それは、日本で外人の恋人を見つけること、です。これはもちろん人の好みや状況により、「恋人は日本人がいい」、「すでに日本人と結婚している」などがありますが、もし恋人や配偶者が英語を第一言語として話す人であればいやでも話せるようになるものです。または日本にある海外と取引する貿易会社や英会話学校等に勤務する等も有効です。とはいえ、仕事上他人から英語を学ぶのと、恋人から英語を学ぶのとではその理解力に差があります。

 私は日本で一時期貿易会社に勤めていましたが、その理由はその会社の成長性や仕事内容はもとより、英語を話せる環境に身を置くことができる(いやでも英語力を鍛えられる)ということも大きかった気がします。しかしやはり仕事ですから、海外の取引先は私のそんな事情など知る由もありません。早口で聞き取りにくい英語で、様々な無理難題を言ってくるのが常でした。ですから、「それはどういう意味ですか?」とか「意味がわかりません」など相手に言うのは取引以前の話で、問題外な訳です。ペラペラでもない私の英語力には交渉力・表現力をつける前に聞き取れる、そしてもっと話せる段階の時間が要るなと感じたものです。

 そういう意味では、恋人が英語を話せる人であれば、非常に効率がいいです。もちろん先に互いに思いあうことが先ですが、相手の言う英語がわからなければ遠慮なくその場で聞けますし、恋人ですから丁寧に教えてくれます。それが互いの理解をより深めるためには必要ですから、恋人が最高の英語教師と言えるかもしれません。

 前回、<日本にいながら英語を「話せる」ようになる3つの方法。~その1~>の中で2つ目として、インターネットで世界中の友人とおしゃべりすることが効果的だった、と述べましたが、そこで実は私の妻、シャノンと出会いました。ほとんどの外国人が外国在住でしたが、シャノンは大阪に英語教師として来日していました。インターネットでしばらくおしゃべりし、お互い家が近いし一度会いましょうか、ということで進展し、結婚したのでした。出会いのきっかけは何となく不純な感じがするかもしれませんが、よくある知人の紹介やお見合いなどと同じく、要は単なる1つのきっかけであることは同じで、どれだけお互いが理解し必要な存在と思えるかが重要なことは今も昔も変わらないわけです。

 私の両親はもう70代後半という高齢なこともあるのか、そんな出会いなどでいい人が見つかるわけがないと、当初はかなり反対したものです。少しずつ時間をかけ、どれだけ互いが愛し合っているかを理解できたとき、両親はシャノンのことを愛娘のように可愛がり始めました。両親には感謝しています。

 話を戻しまして、恋人ないし配偶者が英語を話す人であれば、何でも気軽に聞けます。自分の知りたい英語表現や、今相手の言った分からない言葉、そして相手の国の価値観・考え方・文化や習慣、それら「全て」を24時間理解しあえることができます。

 ここまで述べてきました、英語を「話せる」ようになる3つの方法に共通することとして言えることは、「恥ずかしさ」を捨てることです。まるで幼児が何でも親に聞き続けるように、何でも好奇心を持って聞くことが「話せる」英語、つまり英語をマスターしていく必要条件かと思います。そしてつくづく思ったことですが、高校や大学で習う難しい英語はほとんど使う意味がありません。いい恰好して難しい言葉や表現を使っても、相手に通じなかったり、「そんな言葉知らないわ。誰も使わないし。」と言われるほどです。高校や大学で使った難しい語彙の教科書や単語帳の内容など、一部英語の難しい小説やインテリの人が好む程度で、相手と普通に意思疎通する場合には不要、ということを実感したものです。中学英語で全く十分です。

 そして会話のキャッチボールをし続けることも重要でしょうか。聞かれたらすぐ答えるようにすること。そのためには、頭の中で毎度毎度日本語でまず文を考え、それを英訳して、英語で言う作業をできる限りやめるよう心がけることです。とはいえ最初からそれをやるのは難しい場合が多いですが、英語の語順や時制等の文法等きちんと正しく言わねば!とかしこまって考える必要は必ずしもなく、もしコーヒーがほしいのであればI want coffee.と言おうが、Coffee, I want.でもCoffee please,全く分らなければ日本語で「コーヒーほしい」と言ってもいいわけです。できるだけ早く言うことを心がけていれば、それだけ英語に対しての頭の回転も速くなり、相手の英語をより多く聞けることにもつながります。しばらく続ければ「痛っ!」というところを「ouch!」と自然と英語を先に口に出した自分に驚くようになります。

 つまるところ何でも慣れと言いましょうか、やることに少しでも楽しさを感じれるようになれば、誰でも上達は驚くほど速いものです。好奇心を持って何でも聞き、会話のキャッチボールをしながら英語を話せば、バイリンガルになる日はかなり近いと思います。

多くの方にご参考にしていただければ幸いです。

日本にいながら英語を「話せる」ようになる3つの方法。~その1~


 そういうわけで、20歳もとうに過ぎ、「読み書き」英語でなく、本当に使える英語、話せるようになるためにはどうしたらいいか、しかも「日本にいながら」できる方法を模索し、私は3つの方法を考え付きました。

 1つ目は、「外人がいるバーに行くこと」でした。

 日本には、多くはないとはいえ英語を話す外国人は確実にいます。彼ら不特定多数と効率良く、しかもあまりお金をかけずに出会える場所として、私はバーを探しました。

 大学卒業後、私は大阪で新聞記者をしていました。そして奈良の自宅に帰る途中に、そういうバーを調べてみますと、案外あるものです。例えばハードロック・カフェ。世界中にその店舗があり、外人にもよく知られています。やはり店内は外人がいます。20歳を過ぎて一から始めるというデメリットを、飲酒可を利用するという長所に変えたとも言えますね。他にもブリティッシュ・バー、スポーツ・バーなど、各国をモチーフにしたバーには、その国出身者を中心に外人が集まります。そういう店を何件も開拓し、よく仕事帰りに訪れました。

 バーですから、お酒も飲みます。中にはダーツやビリヤード、メジャーリーグの試合を流している店もありました。そうしたものをきっかけに、「一緒に対戦してみないか?」と話し始めたこともしばしばありました。隣に座った外人には、チャンスとばかり「はじめまして。今日は一人?」など、文法度外視でまず話すことを中心にこちらからどんどん話しかけます。やはりお互いお酒が入っていることは、うちとけるのに時間がかからず効果的です。変に硬くなることなく、より気軽に、話も弾みます。もし相手が日本人ですと、いきなり話しかければ「何だこいつは?」と敬遠されることもたたあるでしょうが、外人の場合、通常むしろみんなで楽しく騒いで盛り上がろう!という感じでいますので、相手が見ず知らずでも、男女関係なく気さくに話しかけやすいですし、また話しかけられます。そういったバーの、社交場的な雰囲気が「話せる」英語を学びにきた私には好都合でした。

 しかも日本にいる外人の多くは、彼らが言うには孤独で寂しい生活を送っているということでした。「遠い異国の地で、仕事をしてもなじめない場合が多く、仕事仲間の大半である日本人はなぜかいつもよそよそしく感じられ、日本語の話せない彼らにとって、こういった外国風のバーが唯一の居心地のよいところなのだ」、そんな内容を出会ったほとんどの外人が口を揃えたように言うのは不思議な感覚とともに驚きでもありました。

 ともあれ、彼ら大半は日本で友人をもっと作りたがっているのは共通のようで、バーで生きた英語を学びに来た私にとっては格好の場所でした。少なくとも、彼らの多くは友人が欲しいことと、せっかく日本にいるのだから日本人の友人を作り、日本の文化習慣・価値観を分かち合いたいという、私が願っていたことと同じことを実は彼らの多くも願っていたのだと気付かされました。そういう状況の中では、互いにその存在が貴重になっていき、当時の私の英語の文法的ミスの1つや2つ、いや5つや6つなどお構いなしで、ジェスチャーや気持がそれらを優にカバーしていた感があります。仕事上でいやいや、よく分からない英語を話す日本人と接するのとは明らかに違う、彼らの心のよりどころとして求められる私、そして私はそういう話しやすい環境でミスを気にすることなくとにかく聞き、話すという、理想的な持ちつ持たれつの環境がありました。

 日本にいながら「話せる英語」を身につける方法の2つ目は、インターネットで外国の人々とおしゃべりすることでした。いくつかのウェブサイトでは、世界中の人々とパソコンを通じておしゃべりし、友人を作ることができます。日本では俗にいう「出会い系サイト」という不純な出会いを目的にしたものが多く存在しますが、純粋に世界中の人と楽しくおしゃべりし、様々な価値観や文化・習慣の違いなどを共有するのが目的の世界規模のウェブサイトもあります。いろいろなサイトをよく読み、確認した上で私はあるサイトを選びました。

 そこでは、自分のプロフィールを書き、サイトに公表。興味を持ったメンバーがサイト経由で私宛にスマイルという案内メールが届きます。私がその人とおしゃべりしてみたいと思えば返信し、嫌なら何もしません。こちらからスマイルを送るという、その逆もあります。そのサイトからのメール送受信ですから、私のメールアドレスはこちらから教えない限りその誰にも知られることはありません。イギリス、アメリカ、カナダ、そして英語が話せる人なら英語圏を問わず、ロシア、韓国、ドイツの人々など、自宅にいながら様々な人とおしゃべりができるのは非常に楽しいものです。

 また先程のバーのように出かけることもなく、自分の家で空いた時間にすぐおしゃべりできる点は大きな魅力です。世界中で友人を何人も持っていると、時差が12時間違う国の友人、8時間、6時間、1時間など、こちらの空いた時間に話せる相手も変化が付いて面白いです。また時には、「日本では今でも忍者がいるの?」と聞いてくる人もいます。現地で得られる日本の情報の全てが、日本の現状を正しく伝えていないこともあります。そのような中で間違った情報や固定観念を取り除きあうことも、世界を正しく理解し感じるためには必要です。そして現地の習慣や食習慣、独特のイベント等もリアルに知れ、時にメールで現地の風景を写真で送ってくれたりするのは楽しいものです。こちらも日本の習慣やニュースなどをどんどん英語で教え、写真も送り、生きた使われている英語を学べるとともに様々な文化・習慣・考え方・価値観を学べることができました。スカイプをお互いインストールしているならば、世界中どの国にかけてもタダ。何とも便利な世の中になったものです。その恩恵を十分に活用した方法です。

 次回はその3つ目についてお話します。

日本と全く逆の、外国流の英語の学び方


 約10年間、学生時代に英語を学び続けても外人と全く対等に話せないやるせなさ。それでも英語を「話せる」ようになりたかった私は、すでに20歳を超え、大学を卒業する頃になっていました。日本という単一民族国家で、留学等多大な時間とお金をかけずとも、普通に暮らしながら英語を「話せる」ようになりたい。その方法を考え続けました。

 とはいえ、日本で普通に暮らす中で、英語を話せるようになる環境がそうそうあるわけではありません。そんな時、卒業プレゼントを兼ねて、母がヨーロッパへ旅行に行かないかと提案し、欧州主要五カ国に行くことになりました。

 その旅行中、確かに各国での観光は素晴らしかったのですが、同時に驚いたのが英語を第一言語としない国々、フランス・ドイツ・イタリア等の人々がなんと英語を上手話すのか、ということでした。なぜヨーロッパの人々が、英語をより話せるのかその理由は今後書かせてもらうことにして、その理由を旅行中に添乗員の人に聞いてみました。

 すると、「教科書をほとんど使わない英語教育を小さい頃からしているからかもしれないです」とのこと。それはつまり、「読み書き」ではなく「会話」中心の英語教育をしていることに大きな理由があるようです。 これには今まで学生時代私がやってきたことを真っ向から否定する、そしてあるべき姿を感じ取れたものでした。

 さらにその数年後、バルト三国の一つ、ラトビアという国へ一人旅しましたが、そこでも同じような状況を見ることができました。ラトビアという小国では英語は公用語ではありません。ロシア語が第一言語で、それはフランス語やドイツ語よりも英語とは言語学的にもかなり離れています。しかし現地で知り合った人々に聞いてみますと、「英語を学ぶのはまず会話から。先生ととにかくおしゃべりをするのが最初。そのずっと後に、読めるようにも、書くようにもなる。自然とね。」と言ったラトビアの友人に、感心したものでした。

 日本の英語教育は、とにかく読み書きが最初かつ中心、というきらいがあります。それだとテスト作成も非常に楽ですが、一番大事な会話を抜けたまま、大学卒業まで行ってしまいかねない現状です。この矛盾は、決して私だけが感じた事ではないはずです。現在学生の諸君たちも分かっているはずでしょうが、大半の大学入試が読み書きだけの試験を未だ行っているから、読み書きという副次的なことばかりを仕方なくやっているのが現状ではないでしょうか?

 ちなみに、あと10年後に、中国が世界で一番の英語を話す国になるといいます。人口の違いがあるとはいえ、中国の勢いは素晴らしいものがあります。いつまでも読み書きばかりしか教えられない、外人ともろくに話せない日本の英語教師やその体制など捨てて、英語という外国語を教えるのですから大量に外国の経験ある英語教師を招聘し、全ての英語教師を外国人にしたり、読み書きよりも会話を重点的に教えるなど改革をすることも大事かと私はつくづく思います。少子化が叫ばれる中、我々にできることは、より世界に通用する、対等な発言能力を持つ強い子供たちを育てることかもしれません。そのためには読み書きなど二の次で、まず英会話力、そしてそれに付随する表現力・意志表示力が必要になってくるはずです。このままの日本が続けば、いずれ先進国から途上国へと落ちぶれる時が来るのではないか、そう危惧する評論家等が後を絶たないのは当然と言えます。

 話を戻して、昔は文字を読み書きできる人が少なかった時代もありました。しかし彼らは話し言葉は普通に使っていました。私が今住んでいるハワイでも、昔は文字がなく、文化習慣等の継承はもっぱら口頭のみであったと言われています。言語を覚えるにあたり必要なことは、つまるところ話せるようになること、まずそれが基本で最初にすべきことのようです。逆に、多くの日本人のように英語を読み書きできるが話せないからと、紙に書いて外人と意思疎通せねばならない状況を見て、英語を話せているとは決して言えません。

 

 帰国後、それからの私は、今までのような読む英語、書く英語をから脱却した、「話せる」英語法を模索し始めました。かといって、当時友人が通っていた英語教室には興味はありませんでした。CMでよくやっていたような英語教室では、入学金が数十万、自分の受けたい時間がなかなかとれずいつもキャンセル待ち、そして教科書を読んでいく、そんなことを聞かされていましたので、私はそれらに行くことはしませんでした。

 英検などの資格ももてはやされています。それは進学や出世の武器にはなるでしょうが、あくまで「話せる」ようになりたかった私には興味がわきませんでした。まして英検1級というレベルが、ネイティブの人の果たしてどれほどのレベルであるのか、私にはあまり期待が出来ないところがありました。ある人は、英検1級はネイティブの5~6歳レベル程度と主張するほどですし。ともあれ読み書きばかりの学生時代の延長のように感じられたそれら英語の資格は、私は受けないことにしました。

 そしてさて、どうやってこの日本で「話せる」英語を20歳超えた今頃から覚えることができるのか、考えた挙句、3つの方法を考えました。 

英語を話すということ


 英語を話すということ。日本で普通に生まれ育った多くの人が、英語を流暢に話せることはできません。日本が英語を公用語にしていないとか、島国だからとか、いろいろ原因は考えられますが、事実日本人は英語を難なく話す環境に未だないのは事実です。

 私も例にもれず、中学に入ってから英語というものを習い始めましたが、日本の学校で教える英語は読み書き中心の使われていない英語が中心でした。高校、大学と必死になり英単語や文法を覚えましたが、実際外人と話せるかというと、お世辞にも意思疎通ができるとは言えない状態でした。中学1年から大学卒業まで10年間、毎日のように勉強してきた英語は一体何だったのか、外人と初めて話した時の自分の英語力に愕然としたものでした。

 それは誰の責任かをここでとやかく言うことはしませんが、悲しいかな、日本で教えられてきた英語とは「読み書き英語」だったのは間違いありません。これからは小学校から英語教育が始まると言われていますが、ただ開始時期を早めるだけでは意味がないように思えます。むしろ将来、私が味わったような絶望感がさらに増すだけのようにも思えます。

 言いたいのは、会話力をどれだけつけられるか。読み書きのように、眼で読んで字で書くような英語を長年かけてどれだけできるようになっても、最も肝心な会話力が養われなければ全く話になりません。会話力が出来てくるに従い、必ず付随して読み書きの能力や表現力も付いてきますが、その逆の読み書きができたら話せるようにもなるなどと言うのは決して起こりえないのは私が経験したことが実証しています。

 当時の日本の英語教師のいったいどれほどの人が、英語を難なく「読み書き」だけでなく「話せる」人がいたか。それは私の学生時代を振り返るだけで簡単に推測できることができます。教師の後にならって英文を発音しましたが、その教師の話す英語は本当の英語ではなく、帰国子女や外人が話す英語とは全く別の、いわゆる和製英語、カタカナ英語だった気がします。そのような英語を聞き、ならって読めば読むほど、若い学生の頭にはこれでいいのだとある種洗脳されていったような気がします。

 こうした状況が絶対的におかしいと気づいた頃は時既に遅し。それでも英語を話してみたいという気持ちが強かった私は、およそ一から再度英語を学び始めることにしました。関西学院大学を入学し、すでに20歳を過ぎていました。

 多くの方は、学生時代、学校の必修科目として英語を「やらざるを得ない」状況だったかもしれません。私は理科や科学は苦手でしたが、英語は中でもやる気を持って勉強できたような気がします。それはおそらく、英語を話せるようになれば世界中の人々と話せるようになる、そして世界をもっと知ることができるのではないか、そうした漠然とでも先にある何かを感じれる科目であったからかもしれません。普通に島国日本で暮らす以上、周りはほぼ全員日本人である訳で、世界をもっと直接知ることはできません。違った文化・習慣を持つ人々ともっと気軽に話し、互いの相違点を知りそして互いにより人間的に大きくなる。そう考えたとき、英語が持つ限りない可能性に大きな魅力を感じたものでした。

 次回は、既に20歳を過ぎた私が、実際どうやって話せる英語を効率良く学んでいったか、その体験談を書いてみることにします。

ハワイは流星を見る最高の場所ですね。


 ハワイでは、無料で楽しめる場所やアトラクションがいくつもあります。その1つに、流れ星があります。
 8月15日頃、日本でお盆の時期に、ハワイでは流れ星が一番よく見れる時期と言われています。私もそれに合わせて見てみることにしました。
 自宅から歩いて3分ほど、ワイキキビーチへござを持って行きますと、夜のビーチはいい雰囲気です。すぐ横のカラカウア大通りは依然車や人が行き来していますが、浜辺には人もほとんどおらず、カップルが2人だけの時間を共有しているだけで、他には波が穏やかに寄せるだけ。妻と私は、ござの上に寝っ転がり、夜空に流星を見つけようと準備しました。
 夜空を見始めてからわずか2分足らずで、大きな流れ星が!しかも小さくてもしかしたら見間違いではないのか、というようなサイズでは全然なく、眼で追わねばならぬほど、それは大きな光のカッターで夜空に大きな切り込みを入れるかのような、素晴らしい流れ星でした。
 来てすぐに現れた巨大な流れ星に2人で興奮し、声を合わせて「ohhh~~」という始末。私たちがいきなり大声で興奮しだしたものですから、後方で離れて座っていた白人のカップルが、私たちに寄ってきて「どうしたんですか?」と尋ねてきました。私が「いやいや、ただ流れ星を見に来たのですが、いきなりすごい大きなのを見てびっくりしていたのですよ」というと、彼らは知らなかったらしく「私たちも探すわ、ありがとう」と探し始めました。
 日本ではなかなか流れ星を見ることはありません。私の母が若い頃は大阪や奈良などでもよく見れたものだといいますが、現在ではかなり不可能になってきています。街の到る所に24時間ライトが点灯しているからでしょうか。
 以前沖縄に8月頃旅行したとき、流星が見れるということで友人たちと浜辺に寝転がり見たことがありました。少なくとも沖縄では見れます。しかし当時私は浜辺に行ったもののかなり夜遅く、とても眠く、隣で友人たちが流れ星を見つけ「ああぁ!!」と言っていたのを覚えていますが、半分寝ぼけており見た記憶がほとんどありません。ですから今回のハワイで見た流星は喜びもひとしおでした。
 来てすぐにあらわれた後も、流星はどんどん現れます。それは言葉に言い表せないくらいの感動です。妻が言うには、「流星が現れたら何か1つお願い事をすればどう?」というので、1つお願い事を決め、待っていました。
 どこに現れても見れるよう、地面に寝そべって夜空全体をきょろきょろ見続けると、だんだん疲れてきます。そして流星が現れると、ただ「あっ!」と言ってしまうんですね。「あ~っ!」と言い終わるとすでに流れ星は消えています。しかも右手で反射的に指さしてしまいますので、願い事など全く言えません。妻も大体同じようで、現れたらただ「あ~っ!」と言っているだけです。笑ってしまうような状況で、私は両手を背中の下に入れ、反射的に流星に指をさせないようにしました。そして現れていない時から、すでにその願い事を念仏のように繰り返し心の中で言い続けました。
 そして次に現れたとき、私は「ああっ!」とまた言ってしまいました。あれほど心で言い続けた願い事はどこへやら、突然現れた流星に驚きと感動でただあっというだけ。情けないような笑えるような状況の繰り返しでしたので、その日はもう帰ることにしました。
 夏にハワイに来られるのでしたら、あなたも是非流れ星を見てみませんか?お盆のころ、できるだけ遅い時間がより現れやすいようです。私たちは深夜0時頃~1時間ほどいましたが、かなりの流星を見ることができました。

妻からの、ハワイらしい誕生日プレゼント


 9月10日は私の誕生日でした。毎年何かと心のこもったプレゼントをくれる妻なので、今年は何だろうと少し楽しみにしていました。

 すると前日の9日に、シャノンが「明日はノースショアに行こう」と、朝11時ころ出発しようと時間まで指定してきました。私の誕生日プレゼントとして何か妻は計画を練っていたのは明らかですが、「着いてからのお楽しみ」、と何をするのか教えてくれません。

 ノースショアと言えば、有名なのは世界でも最も大きな大波がくるサーフィンのメッカであること、採れたてのエビが美味しいこと、そしてその自然の美しさやのんびりした街並みなど、いくつも名所はありますが、何を計画しているのか分かりません。サーフィン、シュノーケリング、スキューバダイビング、ジェットスキー、カイトサーフィンなど、土地柄思い当たるのはマリンスポーツばかり。

 しかしいつも履いているサンダル類ではなく、靴を持って行くように、そして長袖のシャツも要るといいます。

 妻が何を計画していたのか、この時点ではわかりませんでした。皆さんは何を想像しますか?私はハイキングか乗馬でもしに行くのかと思いましたが、「近いけど違うわ」とニヤニヤするだけ。そういえば、ここ数日妻はいつもよりやけにニヤニヤしており、よほどその計画に満足していたのでしょう。わざわざ計画してくれるのは嬉しいのですが、何をするのか分からぬまま時が過ぎるのは、ややむずかゆいものでした。

 そして誕生日当日、車でノースショアへ到着。都合で私が前日寝たのは朝になってからでしたので、到着したのはやや遅く昼1時を回ったころ。なんと着いたのは、小さな空港。スカイダイビング場でした。なんとスカイダイビングとは!とびっくりし急にわくわくしてきた私の隣で、妻はなんと泣き出しました。「どうしたの!?」と聞くと、「怖い~」と、自分で計画したスカイダイビング場に着いて急に恐怖感が出てきたようです。感受性の強い妻は、感情が瞬時に高まると喜怒哀楽関係なしにこうやって泣きます。「おれだけやるから、シャノンはやらなくていいよ」となだめますが、私ひとりで飛ぶのは面白くないようで、泣きながらも「やるわ!」と、建物の中へ。

 名前を告げると、早速ビデオを見ながら用紙に必要事項を書きます。この用紙にびっくりしたのですが、10枚近くある紙には、英語で文字がぎっしり。内容は、「あなたは死ぬか、重傷を負うかもしれません。」、「あらゆる保険は効きません」と書いてあり、各ページに日本語で「危険」と大きく印刷されてあります。「誕生日に死にたくないなぁ」と思いつつ、7~8か所にサインをし、いざ準備します。

 私と飛ぶのは、日本語が上手な白人男性。どうやら日本人の方も時々観光の一つとして来るようで、説明はほとんど日本語。セスナから飛び降りるときは、前かがみで両手は胸でⅩ字に組み、いざ飛び降りたらエビぞりになり両手両足を開脚しましょう、とのこと。シャノンは腹を決めたのか、もう泣かず真剣に話を聞いています。

 全員の準備ができ、5分ほどバンに乗りセスナが待つ滑走路へ。私達以外に参加者はあと4、5人ほど。中には60代の婦人もおられ、話を聞くとハワイの観光中に、近くを通っているとスカイダイビングをしている人々を空に見つけ、衝動的に参加したのだそう。年齢に関係なく、人生を楽しんでいる雰囲気が心地よい婦人でした。

 セスナに乗ると、すぐ離陸。爆音の室内の中、見るみると高度を上げていきます。ノースショアの海岸、サトウキビ畑、美しい風景を空から眺めるのは素晴らしく、冬だと大波やクジラも見れますよ、とのこと。

スカイダイビングせずともこの風景で十分素晴らしいのですが、間もなくセスナは雲の上へ。離陸から10分ほどで高さ4000m付近に来ますと、いよいよダイビングスタートです。

 シャノンが1番最初に飛ぶことになりました。それを聞いて妻の顔はこわばり、今にも泣き出しそうです。手を握り笑顔でなだめますが、効果なし。「1分で終わるよ。すぐ地上で会おうね!」というと、1・2・3の合図で大空へダイビング。まさに急降下、シャノンがみるみる小さくなっていきます。そして2番手は私。待ったなしで、合図とともに大空へ。私の両眼はかっ開き、体は強烈な風を受けながらエビぞりに。終始「おおぉ~」と言っているためか、大きくあけた口は一瞬でカラカラに。付き添いのカメラマンが私のダイビングを至近距離で撮り続けます。初めてのスカイダイビングで、時速約200キロの中、急降下中にカメラに向かって笑顔で応えられる余裕もなく、波打つ頬のひきつった笑顔でなんとかカメラに応え、まだまだ急降下。なすがまま、眼は未だ大きく開いたまま、出発の空港が眼下に見えてきたと思った時にパラシュートが開きました。

 いきなり何百メートルも上空に舞い上がり、そこからはのんびりと遊覧です。あの海岸がパイプライン、あの岬がオアフ島の最西端、あれが出発した空港です、と後ろで言われるも、私はイエスを繰り返すばかり。前日ほとんど寝ていなく、起きてすぐ何も食べず挑戦したのが応えたのでしょうか。パラシュートで急降下が終わってから、急に気分が悪くなってきました。しかしなおも遊覧は続きます。手綱を持たされ、右や左に旋回。インストラクターの方は良かれと思って私に操縦させてくれるのですが、みるみる私の体調は悪くなっていき、頭にあるのはもう早く帰ろう、ということだけ。通常ならば急降下の後、楽しく遊覧するのでしょうが、視界にはとうとう星が見え始め、めまいがしてきました。意識がもうろうとしてきた時、着陸。何とも恥ずかしい話ですが、先に着陸している妻が出迎えてくれるも、私は意識がもうろうとし、しゃがみ込んだ態勢で着陸。目を閉じ深呼吸し、なんとか立ち上がった時はやれやれ、という気分で一杯。その一部始終もカメラマンは写真を撮り続けるのですから、情けないやら恥ずかしいやらで複雑でした。

 前々から、時間があればスカイダイビングしてみたいと言っていたのは私でした。それを私への誕生日プレゼントにしてくれた妻は泣きながらも勇敢に挑戦し、結果妻は心身ともに問題なくスカイダイビングを満喫。私はというとよろめきながらの着陸。なんとも情けない限りです。

 終了後、スカイダイビング終了証明書をもらい、参加者やインストラクターの人達とおしゃべり。私はそれもそこそこに、トイレに駆け込んだのでした。

 次はよく寝て、体調万全で臨みたいものです。ともあれ、良い誕生日をくれた妻に感謝です。