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アメリカのビザ取得の話 ~その3~


 前回からの続きです。

 アメリカ大使館に二次面接で来たものの、早朝6時頃の誰も並んでいない中、正門前で待つことにしました。 「着いたら電話してね」と言っていた妻に電話しても、ぜんぜん出ません。私が電話で起こしてしまったほどの時間でした。

 時折大使館関係者であろう人が来ると、正門で守衛さんたちが慌しくなります。正門前に設置されている伸縮式の数個のポールが地面に沈み、門の前で車を止めさせます。そして守衛が先に鏡のついた棒で車の下に爆弾など危険物がないかじっくり時間をかけてチェックします。その車がたとえ職員のものでもみっちりやっていました。そしてなにやら白い紙を持ち、ドアのノブなどにその紙を当てていきます。指紋でも採っているようです。トランク、バンパーなどもチェックし、ようやく車は中に入っていきました。その一部始終を、ビザ面接で待つ私は真横で見る羽目になりました。同じ作業を10台ほど見、朝日が眩しく照り始めた頃、ようやく大使館に2人目が現れました。時間にして朝の7時過ぎでした。

 そして7時45分頃になった時、並ぶ人は私を先頭に10人ほど。日本人のほか、様々な人種の方が来られていました。その時、一人の制服を着た女性が私たちに「ビザ面接でお越しの方はこちらへどうぞ」と、正門横にある持ち物検査場へ並ばされました。パスポートを見せ、空港にあるようなセキュリティーチェックを行います。それが8時頃でした。

 面接だから見た目は大事だと、並んでいる人の中で唯一背広を来ていた私(当日に服装の指定などはありませんが)は、中に金属のものがないか再度たくさんのポケットを確認しました。しかしかれこれ一時間以上前から暇なので確認していましたから、難なくクリア。面接は先着順ということで、予定は10時30分の予約でしたが早く終わらせたい私は朝1番に並び、誰よりも早く来て、ここで引っかかり後回しになるのはアホだ、と、暇つぶしもかねて何回も金属チェックをしたものでした。そして通過後、チェックの人からもらった番号は201。なんで1番ちゃうのん?とツッコミを入れたくなりましたが、正門を通過後、10メートルほど歩いて大使館の建物へ。

 建物に入りますと、中は銀行のような窓口カウンターが10個ほどありました。中にいた女性から、必要書類に必要事項を書いて、窓口に渡してくださいと言われます。この日のために毎日何度も持ち物確認をしてきた私には、何も予期せぬような必要品などは幸いありませんでした。原則、アメリカ大使館ウェブサイトで指定している書類を持参すれば問題ありませんが、1つ注意したほうが良いのは、ビザ発給後の書類送付のため「アメリカでの」住所を書く欄があります。

 これは同ウェブサイトにも載っていなかったと思います。ビザが発給された後、諸書類をアメリカのどこへ送るべきかのため必要です。私は必要書類を全て余分に3部ずつ持参するほどの念の入れようでしたから、様々な書類や一見不必要な書類等も持ち合わせていましたので、スポンサーである妻の親の住所もすぐ書くことが出来ました。そこまで用意できていないある男性は、女性職員に詰め寄って怒っていましたが。「書類の不備があるのでまた今度」、とならぬよう、 必要書類は全てあるか、細心の注意を払いたいものです。特に私のように遠方から来ていたり日本出発が近づいている場合はなおさらです。

 書類にいくつかサインなどをして提出後、しばらく待ちました。テレビではアメリカの番組が、またドアからは迷彩服を着た軍人らしき人が行き来していました。そして一番最初に私の201番が英語でアナウンスされました。窓口へは何度か呼ばれます。毎回違う人がチェックし、提出書類に不備がないか確認する人や、妻と現在住んでいますね?、ビザ取得後6ヶ月以内にアメリカに移住しますね?、とだけ聞いてくる人と、呼ばれては待ち、を何度か繰り返しました。

 そしてようやく、大使館の人との本番面接が始まりました。最初に番号を呼ばれる前、次が本番と知らされていました。またそれからは窓口には日本人職員ではなく外人が来て座って待っていました。私はもちろん、待合室で待っていた他20人ほどの人も、「ああ、彼とうとう最初の面接だわ」という緊張感が室内に走りました。

 呼ばれた窓口に行きますと、待っていたのは優しそうな顔立ちの黒人の男性でした。アメリカの人気TV番組、「24」をご存知でしょうか?それに出てくるディビッド・パーマーなるアメリカ大統領に、担当に座る窓口の男性がうりふたつでした。前述しました前日の夜行バスのせいか、ほとんど寝られず、ややハイの私には、彼はアメリカ大統領に重なって見え、「そっくりや!」と笑いをこらえるのに必死になる始末。彼が「事実だけを述べ、嘘は言わないと誓いますか?」と片手を示し宣誓する時も、こらえるのに必死でした。私は片手を宣誓として掲げ、もう片手はお尻をつねっていました。後ろで待つ多くの申請者の視線の前で、お尻をつねるというかなり醜態をさらしてしまいました。「何をしてるんだ?」と思ったでしょうね。

 別に今思えば面白くはないのですが、寝不足なことと、笑ってはいけないという状況はかなり酷だったのは今でも覚えています。
 もちろん、面接では真剣な質問をいくつかされます。その返事次第では、ビザの発給が却下されます。こう言われたらこう言うと、妻と協力していろいろ考えたものでした。失敗は許されないのだとすぐ気を取り直した私は、その大使館員(大統領)の質問にかなり流暢に答えたと思います。もちろん全て英語です。

 「奥さんは何の職業をしていますか?」、「お二人はいつどこで出会いましたか?」、「アメリカで何をされますか?」、「ビザをとれたら、いつ頃アメリカに移住しますか?」など、それほど突っ込んだ質問ではありませんでした。もちろん全て英語ですので、質問にはすぐ英語で回答せねばなりませんが、問われた内容は想定の範囲でしたので、余裕を持って答えることが出来ました。

 その後、英語で「OK,谷さん、おめでとうございます。ビザを発給します。われわれアメリカは谷さんを快く歓迎します。」と言ってもらえました。

 私はその場でガッツポーズをしました。そして「Thank you so much,sir」と言いました。その後は、ビザが家に届いてから6ヶ月以内に日本を出国すること、そして私が最初に降り立つアメリカの空港で、入国審査官の指示に従うこと、などを言われ、二次面接は終了しました。時刻は朝の9時30分。一番乗りの私でも、正味1時間半かかりました。

 その後の私は、まるで東京から逃げるように、その行動は早かったです。大使館前で早朝世間話をした警察官達に「帰りますわ~」を手を振り、眠い私は渋谷や新宿で遊ぶ気などなく一路東京駅へ。余裕を持って帰りの新幹線夕方6時半発を予約していましたが、その後東京駅に着いたのは朝10時前。みどりの窓口で、一番早い大阪行きに変更してくださいと、朝10時過ぎの便に変更。大阪の家に到着したのが昼の2時。やれやれ、一件落着と、妻が帰るまで昼寝をしました。

 そして、1週間もたたぬうちに、大使館からビザが貼られた私のパスポートが到着。きっともっとかかるだろうなと思っていた矢先、大使館の早業にはとても嬉しかったです。そして予定通り3月31日、結婚記念日にアメリカに向けて出国したのでした。

 ポイントは、入念な持ち物チェックをすること、万一に備え関係書類は全て持っていくこと、どんな質問をされてもすぐ答えれるように、あらかじめ質疑応答を英語で考えておくこと、等が一発でパスする秘訣かもしれません。アメリカビザを希望される方全てが万事うまくいくことを願っております。

アメリカのビザ取得の話 ~その2~


 さて前回に引き続き、アメリカのビザ取得の話の2次審査についてお話しようと思います。なお前回・今回ともその内容は2006年度当時の話です。現在の手続き状況と異なる場合がありますので、あくまで体験談としてご参考下さい。

 アメリカでビザを取得するためには、一次、二次と二回手続きを踏む必要があります。どちらがより大変かは人によりますが、二次審査は東京か沖縄ににありますアメリカ大使館に出向かねばなりません。ですから、それら場所から遠い所に在住の方は移動費もかさみます。

 私の場合、当時大阪に住んでおり、東京に行くことにしました。また、特に妻の希望で、私たちの結婚記念日である3月31日に日本を出発しようと決めていましたので、この二次審査は必ずパスし、ビザを取得せねばならぬプレッシャーもありました。

 私の二次審査の面接予約は1月8日の朝10時30分、新年明けて大使館の仕事始めの日だったと思います。私の年末の休みは既に終わっていましたが、8日が最初だと言われ、さらに仕事を休み使い予約しました。

 その1か月ほど前に東京の大使館から電話があり、「二次審査をいつにしますか?」と電話で聞いてきました。今から思うと、新年一発目に予約を入れるのはやや無謀だったかもしれません。大使館の長い冬休みをはさみ、ようやく迎えた新年初日には、きっとよりたくさんの人でごった返すのではないかと心配していたからです。早く行って早く終えたかった私には、年末の休みはなんとなくそれがずっと気がかりでした。

 そして当日。地方から来る多くの方はおそらく前日に東京に泊まるか、当日新幹線で向かうかと思いますが、私は夜行バスを選びました。夜行性の私にとって、早朝の新幹線に乗るより、前日大阪から夜行バスに乗るほうが私の身体に合っているかと思ったからです。

 しかしそれが裏目に出ました。東京駅到着予定が6時半でしたが、なんと朝の4時30分に到着。途中バスは何を思ったのか飛ばしに飛ばし、快適に寝ようと3列シートのデラックスバスを予約したのですが、その暴走とも言うべきスピードからくる振動で、ほとんど眠れませんでした。後日そのバス会社には思いっきり苦情を言いましたが。

 ともあれ1月の朝の4時半は無茶苦茶寒いです。東京駅周辺にいる人といえば、深夜の工事で働く人か、ホームレスの人くらいしかいません。何をしようかうろうろした挙句、うどん屋を発見。東京風のやや濃いうどんでも、とてもおいしく感じたものでした。

 しかしいまだ朝の5時半。新幹線にしとけばよかったなと思いつつも、大使館の開門は8時ですので、まだまだ時間があります。どうしたものか寒風の吹く中考えましたが、あるサイトで、「朝6時で既にたくさんの人の行列でした!」とあったのを思い出し、もう大使館に向かうことにしました。

 大阪人の私は、大阪でもJRや私鉄の網の目のような路線網に目がくらむほどですが、東京はよりすごいですね。同じ目的地に行くにも、様々な行き方があります。ただ路線地図を見ただけで決めるのは、その乗り換えにどれだけ徒歩で移動がかかるか知らない地方の人間には、半ば賭けに近いものがありました。利用した地下鉄で、乗換えがありましたが、違う地下鉄の駅に到着するまでかなり歩かねばなりませんでした。路線標識には5分などと書いてありますが、それは電車に乗ってかかる時間。駅まで歩く移動時間は別なんですね。朝の早くから、えらく運動したようでした。

 ようやく大使館前に着いたのが朝の6時前。まだ薄暗い中、正門に到着。8時に開門なのはわかっていましたが、私の面接時間である10時30分というのは一応の予定時間ということで、その日に来た人の先着順で時間は変更される、と知っていましたので早く終わらせたい私は正門へ向かいました。

 びっくりしたのが、なんと厳重警備なこと!何人もの警察官が大使館周辺を取り囲むように配置につき、パトカー、そして装甲車まで。えらいとこにきたもんだ、と場違いにも似た気持ちで正門に着きました。

 ウェブサイトで言っていたのとは裏腹に、正門前にいたのは警察官と門番の守衛のみ。場の悪さに多少居心地が悪かったですが、その守衛さんに、「ビザの面接に来た者ですが、ここに並ぶのですか?」と聞くと「はい。そこに並んで。開くの8時って知ってるよね?」とえらく怪訝そうに東京弁で返してきます。「分かっとるわ!」と言い返したい気持ちを抑え、誰も並んでいない寒い正門前で、警察官の視線が気になる中、並ぶことにしました。

 すでに相当長く書いていますので、ここで切り、続きは次回にします。

アメリカのビザ取得の話 ~その1~


 

私が日本に住んでいました時、大阪で英語教師として働いていたアメリカ人のシャノンと結婚しました。そして2人でハワイに住もうと決心したのですが、ご存知のように移住にはビザが必要です。今回はどうやってアメリカのビザを取得したか、当時の体験談を踏まえてご紹介しようと思います。

 ビザには様々な種類があります。学生ビザや就労ビザ、そして私が取得した配偶者ビザなどなど、その人の目的や状況により取得すべきビザの種類も大きく異なります。その中でも、配偶者ビザは比較的取得しやすいと言われています。アメリカ人と結婚すれば、よほど問題がない限りすんなり取得できると言われています。

 とはいえ、今日明日ですぐ取れるようなものではありません。多くのビザ取得希望の方が苦労したように、その必要書類、取得までに要する期間、様々な場所に出向き、手続きを行わなければならないその時間的・金銭的出費・そして精神的疲労は大変大きなものといえます。ですから、ビザ取得にはかなり長い期間がかかるとあらかじめ覚悟をしておくだけでも、後々の気持ちの持ち方がかなり変わってくるものです。

 当時友人に、日本人とオーストラリア人の夫婦がいまして、彼らはオーストラリアに移住を望んでいました。配偶者ビザ希望の点では私と妻の状況と同じでした。彼らは都合で年末迄にビザを取得し、新年をオーストラリアで迎える予定でいましたが、実際のビザ手続きは予定を大きく上回り、年を越してもまだとれず、都合でオーストラリア人の妻だけ先に移住、夫は取得のため日本に残る、という悲惨な状況になってしまいました。

 私のビザ取得も、仕事の合間を縫って少しずつ行ったためか、結局取得までに7ヶ月ほどかかりました。これから取ろうとお考えの方や、興味のある方は、くれぐれも時間的余裕をもって行うことをお勧めします。

 私のビザは配偶者ビザですので、その体験談しかお話できませんが、どういう流れかをお話しようと思います。
 さてビザを取ろうと決めた私たちは、アメリカ大使館のウェブサイトを見ました。そして何がいるのか、必要書類を確認しますと出てくるその多さにびっくりしました。なんと多くの書類を用意せねばならないのか。。国内で数少ない、大使館指定の病院で行う健康診断、警察証明書、パスポート、戸籍謄本、結婚証明書、アメリカ国内で扶養者になってくれる人の各書類(妻の母に協力してもらいました)など、そして費用として何だかんだと約10万近くかかりました。

 私のとって厄介だったのは、アメリカ大使館が指定する病院まで出向いて健康診断をうける、というものでした。当時奈良に住んでいましたので、指定病院の中で最寄の神戸にいきました。行き返りで4時間はかかりましたが、住まいの都合上もっと遠い方もおられることでしょう。仕事を休まねばなりません。健康診断をパスするためにはいくつか必要な点がありますが、最も困難なのはおそらく必要なワクチンを全て摂取しているかどうか。母子手帳を見れば、あと何のワクチンが必要か分かります。私は3つほど新たに受ける必要がありました。確かおたふくかぜのワクチンと何かでした。それらは家の近くの病院でもでき、割安ということでしたので、必要なワクチン、予防接種は奈良の最寄の病院で行うことにしました。とはいえ、最寄の病院では扱っていないワクチンが必要といわれ、注射をうたれ、結局4万以上しました。健康保険がきかないのですね。

 その後、家から最寄の病院でさらに必要なワクチンを受けに行きました。今から思うと、神戸でやっておいたほうが早かったと思います。というのは、最寄の病院では私のような例はなく、ワクチンを一応打ってもらいましたが、医者が英語で診断書を書けない。ビザに必要な書類ですので、必要なワクチンを受けた旨の診断書も英語で書いてもらう必要があります。医者とは言え、英語で書いてほしいという私に明らかに困惑した表情を示したのを今でも覚えています。ワクチンと診断書だけでもかなりのお金が飛んだものでした。

 また、警察証明書もかなり面倒でした。私は奈良市にある指定の場所(鑑識課)に申請しに行きましたが、指紋検査、書類にサインし、その後調べるため2週間ほど待たねばなりませんでした。また仕事を休んで行かねばなりません。そこで担当の方と少しおしゃべりしたのですが、「兄ちゃん、アメリカのどこに住むの?」「ハワイです」「おぉ~。ええのぉ。わしも行きたいわぁ」等と世間話をしながら、ちらっとみた過去の申請用紙には、奈良のような田舎でもカナダやブラジル、ヨーロッパなどに移住する人がいるようで、様々な国希望の奈良県人がいるのだと、同類者に嬉しいようなびっくりするような気持ちでいました。

 またアメリカで扶養者として協力してもらうサポーターを見つけることも必要です。たいてい配偶者の親になるでしょうが、その方の基本的な情報はもちろん、収入まで記載してもらわねばなりません。これは、もし移住後生活困難になった際、援助してくれるアメリカ国民を決めるため必要でして、妻の母が快く引き受けてくれました。今でもとても感謝しています。どなたか現地で引き受けてくれる方を一人あらかじめ決め、その方に了承してもらう必要があります。

 大きく分けて2回、大使館にコンタクトを取らねばなりません。最初は書類審査として、上記のような指定された書類に様々な私たちの情報を書き込み(どうやって出会い、最初どこで会ったか等、写真つきで個人的な内容もまとめねばなりませんでした)、東京のアメリカ大使館に送付しました。特に問題がなければ二次審査として面接の予約ができます。

 ここで注意したいことは、一次審査を通過したからと、すぐ二次審査(最終審査)に移る前に、その時の自分の状況をいったん確認する必要があるかと思います。というのは、その二次審査をパスするということは、ビザが発給されるということでして、発給後「6ヶ月以内」に移住をせねばなりません。1日でも早く、と急いでいる方には問題ないでしょうが、辞職願を出さず仕事をまだ国内でしている、引越し手続きや移住後の綿密な予定など、今後の予定を具体的に決めずに二次審査の面接予約を申請するのはやや危険のような気がします。日本での全ての事(戸籍除籍、仕事、引越し、車の処分、友人知人との別れ、親との別れ、将来の移住先、現地の仕事の計画等など)、をきちんと済ませてから、移住したいものです。6ヶ月以内といえど、こういう時の6ヶ月は非常に過ぎるのが早いものです。綿密な計画と見通しが立ってから二次審査を申請したいものです。

 次回は東京での二次審査の体験談の模様をお話します。 

はずかしがり、ためらう接し方から起こる誤解


 

ハワイには多くの日本人の方が観光に訪れます。日本語が通じると言われるワイキキエリアでさえ、やはり英語で話さなければならない時は時折あります。レストランやお店にいますと、多くの日本人と店員の接し方に少し気づくときがあります。

 例えば、レストランで食事をしている時、大抵店員がひとつのテーブルを担当し、いろいろと親身に世話をしてくれます。今日のお勧めはこれですとか、メニューに写真がなければこれこれからできていて、こういうものですとか、食事後おいしかったですか?、満喫してもらえましたか?と「英語」で話してきます。彼らにしてみれば、気さくに、普通に仕事をしているわけですが、英語を解せないお客さん、特に日本人の方の場合は、何も言わない。ただ愛想笑いや照れ笑いをする方がとても多いようです。これはなるべく避けたいものです。

 何を言っているのか分からないからどうすることもできないという気持ちはよく分かりますが、ずっと黙っているとお互い気まずいですよね。日本でのレストランでは店員が気さくにいろいろ話しかけてくることはそうありませんから、いっそうどうすればいいのかためらってしまうかもしれません。

 知り合いに、70代の老婦人がいますが、彼女は大阪在住で英語はまったく解しません。しかし彼女がハワイで外人に話しかけられたらとる行動は、いたってシンプルなものです。「すみませんねぇ。英語分かりませんねん。」、「ちょっとお兄さん、お水ちょうだい~!」など、全部日本語で、日本にいるのと変わらず堂々としておられます。英語が分からないのですから、日本語でしか話す手段がないわけです。店員が英語でいろいろ話しかけてきても、「うんうん、で、ここにはお茶おいてはりますの?」など、店員が言っていることとは全く関係ないことを返答し、こちらから質問する始末です。

 彼女の例は多少大げさかもしれませんが、思うに彼女は店員との会話のキャッチボールができていると思います。店員が話しかけてくると、その老婦人はそのボールを一応投げ返します。その方向は店員とは違うところでしょうが、2人は、お互い話そうという構えができています。ところが受け取ったボールを返さないままですと、それで終わりなんですね。むちゃくちゃな返答、的外れな返答をするのが怖い、はずかしいと思うと、ほとんど何も話せない。何も話さないより、何かこちらで返してあげるアクションを起こすほうが私は良いと思います。

 それは何か、それは日本語で返すことで全く良いと思います。いい格好して見当違いなことを話すのが恥ずかしいと思ったり、英語が分かると思わせたいと背伸びをするなどよりは、分からないときは分からないと日本語で言ったり、ジャスチャーまじりで、見栄えは悪くとも何とかこちらの考えを伝えようと行動に出ると、キャッチボールは一応成り立ちます。

 すると相手はたいてい、ああ、分かってないんだなと理解し、それ相応のより分かりやすい対応をしてくれるものです。店員は本当は今日のおすすめをメニューを教えたかったのに、日本語でワーッと返されると、「もうええわ」とコントの終わりのようにやめるものです。ところがあいまいに微笑んだりイエス、イエスというと始末が悪くなりますね。

 日本語で構いませんから、こちらからアクションをすると大抵話が進むことが多いのが私の体験談です。思い当たる節のある方は、一度お試ししてはいかがですか?案外伝わったりして楽しいですよ。

ハワイの人々のアロハ・スピリッツは泣けてきます。


 ハワイに住み始めた当初のこと。タクシーに乗っていますと、運転手が今回はご旅行ですか?と聞いてきました。私はつい最近ハワイに住み始めたところなんですというと、彼は「Welcome home!(おかえりなさい!)」とごく自然に言ってくれました。もちろんハワイの住民ではなく、日本から妻と共に希望と不安を胸に移住してきた私たちにとって、運転手の何気ない言葉がやけに心に優しく響いたものでした。
 ハワイに住む人々は、一般的に解放的で、他人により優しく接する性格があるように感じます。それはハワイの気候や風土が住む人々に良い影響を与えているのかもしれませんが、よそよそしくなく、誰にでも気さくに話しかけてくる性格は、人のあるべき姿を再び感じさせてくれるものです。

 最初私たち夫婦がハワイで住み始めたところはエイバ・ビーチというところでした。その周りの住人は本当に私たちを優しく迎えてくれました。スーツケースだけの少ない荷物だけで一から生活を始め出し、友人知人などハワイにいない中、周りの住人達は、「食器がいるでしょう?たくさん余っているから持っていって」、「これよかったら食べて」、「服もいるでしょう、お古だけど着てちょうだい」などなど、越してきたばかりの私たちに様々な手助けをして頂いたものでした。貰った品物はもちろん嬉しいものですが、最も嬉しかったのは彼らの優しさ。血のつながってない他人でも関係なく助け合おうという気持がとてもよく伝わりました。そうなるとこちらも何か彼らにしてあげようとなるのが人情というもの。小さな子供がいる家庭ではおもりをしてあげたり、食事を作りすぎたらあげたり、日本語や日本文化を教えてあげたり。お互いを思いあい、支えあう好循環がそこに生まれます。

 そうした好循環は日本でももちろん見られるでしょうが、最近はめっきり感じることも与える相手も少なくなってきてしまいました。大阪や神戸、千葉、奈良などに住んだことがありますが、お隣さんとの付き合いは寂しいもの。挨拶程度で、お互いをなるべく関わらないように過ごすべき、というような雰囲気が感じられたものでした。

 そうしたコミュニケーション不足の状態がお互い続くと、悪印象が心にたまりやすくなるのではないでしょうか?隣の家、部屋が少しでもうるさければ、すぐいらいらしてしまう。赤ん坊が泣いていたら、うるささより苛立たしさのほうが積もってしまうなど。多くはお互いのコミュニケーション不足から来ているかもしれません。
 

 こちらから挨拶をしても、無視したりじゃま臭そうにする人も中にはいるものです。しかし少なくとも自分は自分なりの親切な接し方を続けていけば、より充実した生活が出来ると思います。ハワイでは人々の接し方がより気さくで開放的と言えますので、隣人との生活はより円滑に出来やすいと思います。

 ハワイで生活してまもなく車を買ったのですが、ハワイではディーラーを通して買う方法もありますが個人で直接売買するのも一般的です。そこで私達はある方の車を気に入り、電話で最初問い合わせてみました。すると電話口で彼は「Welcome home!ハワイに越してきたばかりなんですね、困ったことや何かあれば何でも言ってね、協力するよ」と言ってくれました。会った事もないうえ、まだ購入の契約すらしていないのに、何と好意的なのだろうと思っていると、妻はその優しさのあまり泣いていました。実際その売主は何と半値で車を売ってくれる始末。いい買い物が出来た以上に、人とのふれあい・優しさを身体いっぱい受け取ったことがより嬉しいものでした。

 例外はあるものですが、ハワイはそんなところです。